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グスタフ・マーラー(5)

最終改訂:2012.12.12(前回:2000.12.17)

 マーラーは当時の反ユダヤ主義に対応するため,1897. 2にユダヤ教からカトリック教に改宗してから,1897. 4.17にウィーン宮廷歌劇場の指揮者となり,1897.10. 8に音楽監督となりました。しかしながら,それでも就任早々から「ユダヤ人批判」の格好の的となり,その上,かって各地の歌劇場で歌手や楽員の不評を買ったハードな練習や仮借ない要求がいっそう厳しくなりました。当時の歌劇場の音楽監督は現在と比べられない程の人々の注目を浴びた地位であり,マーラーを主題にした戯画が多数製作・公開されました。

 マーラーの指揮は非常に動作が大きく激しいものだったそうですが,その後,心臓病が発覚してからは,動作が少ない,ほとんど動かないものになりました。彼の指揮で,モーツアルト,ベートーベン(「フィデリオ」の第2幕の最初に「レオノーレ序曲第3番」を演奏するようにしたのは彼が最初です),ワーグナー等が演奏され,ロラーの舞台装置と共に絶賛を浴び,ウィーン宮廷歌劇場の第一期黄金時代が訪れ,これは彼が辞任するまでの10年間続きました。また,当時は現在も演奏される曲がドンドン作曲されている時代であり,当時の新作であったシャルパンティエ,プッチーニ,プフィッツナー等の歌劇も演奏しました。

 また,交響曲等ではベートーベンやシューマンの曲のオーケストレーションの改訂(これらは,現在,CDで聴くことができます)や,バッハの曲の編曲のほか,ウェーバーの未完の歌劇「三人のピント」の補作を行い,初演も行いました。

<2012.12.12.追記>
 下の戯画の説明の中で,「ウィーン宮廷歌劇場指揮者・マーラー」に関しては間違えたことを書いていたので,柘植一朗氏のご指摘により修正いたしました。お教え,どうも有り難うございました。



<戯画(カリカチュア)・スケッチ>

オペラ歌手たちの解任(1900年頃)
マーラーにより次々と歌手達が首切りにあっていることを皮肉ったもの。歌手がそんなに張りつめていると,いつか上司との糸が切れますよと将来を見通したことを言っています。
超モダンな指揮者(1901年)
H.シューリーマン作。マーラーの指揮は非常に身振りの大きなものだったそうです。
指揮するマーラー
若き日のマーラーの指揮の際の動作は非常に大きかったそうです。
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マーラー監督の「嘆きの歌」(1901年)
「嘆きの歌」は数次の改定後,1901.2.17にウィーン楽友協会大ホールで初演されたが,演奏自体が満足できるものではなく,また,批評家の評価も芳しくなかったことを皮肉っています。
若き才能(1902年)
モーツアルトの「ツァイーデ」の台本をローベルト・ヒルシュフェルトに改訂させて上演した時のもの。マーラーがモーツアルトに「若き才能」を育ててやるのだとふんぞりかえっています。
マーラーとグレーテ・フォレスト(1902年)
ケルン歌劇場から客演歌手としてよんだグレーテがそのまま宮廷歌劇場の専属となるのではと憶測されていた頃のもの。他の歌手との不和をマーラーがなだめています。
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新しい”音楽ロマン”(1903年)
シャルパンティエ「ルイーズ」をマーラーが太鼓をたたいて,鳴り物入りで売り込んだが,その上演の評判は今一つでした。ペガカスに乗っているのがシャルパンティエです。
ウィーン宮廷歌劇場指揮者・マーラー
マーラーに座らされているのは,恩給証書を得て悠々自適の生活を保証された前任者(ヴィルヘルム・ヤーン)で,彼にかわって歌劇場の指揮者となったマーラーは,新聞の誉め言葉を受けて勇壮な指揮を見せています。
ヴィーンの劇場監督たち(1904年)
マーラーは左上。当時の監督達を皮肉っています。
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ついにお前を捕えた,私の交響曲をぞんざいに扱った奴め!
ベートーベンの第9交響曲の合唱を管楽器用に編曲したマーラーを風刺しています。
ドン・ジョバンニにいじめられるマーラー
マーラーの指揮した「ドン・ジョバンニ」に対する風刺です。
マーラーの変貌
マーラーは尊敬するワーグナー,リスト,マイヤベーア,シューベルト,ベートーベンの影響から逃れられなかったとの風刺です。
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パリで医者にかかるマーラー(1911年)
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マーラーの交響曲(1889年11月24日)
交響曲第1番初演の時を取り上げたものです。
宮廷歌劇場の”飲み屋”(1899年)
歌劇場を飲み屋に例えたもので,うるさい客(マーラー)が色々と注文を出すので,ウェイトレスが腹をたてています。
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宮廷歌劇場のウィリアム・テル/未来像(1899年)
「ウィリアム・テル」の台詞を引用して,歌劇場の人々がマーラーを叩きつぶそうとして待ちかまえています。
自作の「交響曲第1番」を指揮するマーラー(1900年頃)
テオ・ツァッシュ作。交響曲第1番が如何に当時の人々に破天荒なものであったか,よくわかります。
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ユダヤ人マーラーは,かかしのように宮廷歌劇場から優れた歌手達を追い出すのだ
当時は反ユダヤ主義が吹き荒れていて,マーラーはその格好の標的だったようです。
譜面台と婚礼祭壇の前に立つ監督マーラー(1902年)
色々と物議をかもした経験のあるマーラーは,アルマとの結婚式(1902.3.9)で野次馬が集まるのを恐れ,新聞には17:30と発表して,実際は時間をずらせて早めに内輪だけで結婚式を上げて,その日のうちに,妻を連れて新婚旅行ならぬペテルスブルグでの演奏会のためにウィーンを出発した。なお,その日は大前だったが,夕刻には多数の野次馬が詰めかけたそうです。
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悲劇的交響曲(1907年 1月19日)
マーラーの「楽器」一式を前にしてどれにするか迷っている。交響曲第6番で用いられた打楽器類の奇抜さを風刺しています。
メンゲルベルク博士
マーラーとベートーベンに対するメンゲルベルクの功績を表したものです。
ウィーンのレコード屋の宣伝
マーラーは極めて重要な人物とみなされており,高性能の蓄音機の宣伝に利用された。蓄音機には歌手の名前が書かれており,左より,スレザーク,合唱,ゼルマ・クルツ,オーケストラ,シュメーダーです。


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